荻原一正さん その2

 かくして私は長年住み慣れた横浜から信濃町に生活の場を移し、私の田舎暮らしが始まった。 ただし、妻はまだ仕事があり、また勉強中ということもあって横浜に残っている。 従って、当面は私の一人暮らしということになった。 妻との田舎暮らしは、少し先のことになりそうだ。 かくして私は長年住み慣れた横浜から信濃町に生活の場を移し、私の田舎暮らしが始まった。 ただし、妻はまだ仕事があり、また勉強中ということもあって横浜に残っている。 従って、当面は私の一人暮らしということになった。 妻との田舎暮らしは、少し先のことになりそうだ。

 田舎の暮らしを始めて先ず感じたことは、珈琲が美味いことだ。 私は珈琲が好きで、ほぼ毎朝自分で淹れて飲んでいる。 朝は珈琲を飲まないと目が覚めた気がせず、午前中はぼんやりしてしまう。 そうかといって一日に何杯も飲むわけではないが、ほとんど珈琲依存症と言ってよい。 信濃町で飲む珈琲の味は格別だ。 横浜で飲む珈琲とは一味も二味も違う。 淹れたての珈琲は一口含んだ瞬間、口内に珈琲独特の芳醇な香りが広がり、その瞬間言いようのない幸福感に包まれる。 これだけでも私は田舎暮らしを選択して良かったとしみじみ感じる瞬間である。

 地域社会との関係も良好だ。 横浜から信濃町に移り住んで半年余り、古間地区の地域社会にも少しずつ馴染んできて、近所付き合いも多少するようになった。 所用があって外出すると、時々近所の人が「お茶飲んでいきなよ」と声をかけてくれる。 とても善良な人たちだ。 私も急ぎの用がない限り、出来るだけそれに応じるようにしている。 そうするとやはり信州である。 野沢菜漬けが山のように出てきて、飲む端からお茶を茶碗に注いでくれる。 塩辛い野沢菜漬けを食べながらだと、お茶はいくらでも飲めてしまう。 塩分の摂り過ぎに注意と思いつつも。

 そして何といっても田舎暮らしの真髄は、自然と一体となった暮らしそのものにある。 木々の葉を揺らす風、咲き乱れる野草達、数々の野生動物達。 皆それぞれが自分の命一杯に生きている。 野性の動植物を見ていると、現役時代のような、煩わしい人間関係に象徴される小賢しさがなく、ありのままの姿で命の赴くままに生きているのが感じられる。 人間も自然の一部であることを実感できる。  自然と一体となった田舎暮らしにはモーツァルトの音楽が良く似合う。 モーツァルトの音楽は自分の才能を誇示するところがなく、その感性をありのままに楽譜に写し取っている だから何の障りもなく、自然に心にしみてくる。 自然との一体感を味わいながら、モーツァルトの音楽とも一体となれる。 これは無機質な都会生活では味わえない、田舎暮らしならではの贅沢だろう。

 もっとも田舎暮らしは良い事だけではない。 私を最も悩ませたのは「ヤスデ」である。 ヤスデはムカデに似た足が沢山ある虫で、落ち葉の下に生息し落ち葉を食べて生きている。 したがって何の悪さもせず害虫ではなくむしろ土を豊かにするのだが、5、6月頃と9、10月頃に大発生し家の中に侵入してくるのだ。 気持ちが悪い上に潰すと異臭を放つ。 天敵もいない。 鳥も食べず、蟻も見向きもしない。 どうやらヤスデは敵に襲われると防御反応で「青酸」を出すらしいのだ。 ヤスデを退治するために殺虫剤を大量に散布して、一大撃滅作戦を敢行したが満足の行く戦果をあげられなかった。 次の発生期が心配だ。

 一人暮らしをしているとたまには気分転換も必要になる。 男たるもの聖人君子であり続けることは難しい。 たまには飲酒、盛り場徘徊程度のチョイ悪親父をやることも必要だ。 江戸時代の狂歌にも、上の句で「世の中に酒と女は仇なり」といいながら、下の句で「どうぞ仇に巡り会いたし」と続く。 男というものは業が深い。 ということで、私は時々長野市内の繁華街に飲みに行く。

 蛇足ではあるが、田舎暮らしに「犬」は欠かせない。 犬のいない田舎暮らしは、ワサビのない刺身のようなものである。 地元の人によると熊は出ないがタヌキは出るそうだ。 仮に熊が出没しても敢然と立ち向かい、主人を守るくらいの犬は飼いたい。 名前は「八房(やつふさ)」と決めている。 滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」から拝借した。 八犬伝の「八房」は敵の大将の首を取ってくるような猛犬なので、それに負けないような犬がいい。 もっとも現状は横浜と行き来が多く、犬を飼う状況には至っていない。 犬を飼うのは妻と生活するようになってからになるだろう。

 次に田舎暮らしの条件として欠かせないのは「健康と体力」だ。 一人暮らしでは特に、程々に体を動かし、酒は控えめに、早寝早起き正しい食事が肝要である。 これらを怠るとたちまち体調を崩し、「田舎暮らし」が「施設暮らし」になりかねない。 年をとると健康上の問題が発生するのは止むを得ない。 経年劣化というやつだ。 人間年とともに衰えていくことは避けられない。 避けられない以上は、その事実を受容することが肝要だ。 そこに心の安定がある。

 以上、定年退職後の60歳から80歳頃までの期間を林住期と勝手に当てはめ、その過ごし方を田舎暮らしに求めた私の現在の生活について述べてきた。 田舎暮らしという選択が果たして正解であったのかは、現段階で結論を出すのは性急であろう。 今後数年してから成否の結果が現れると考えている。